スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

これから大喜利世界を作るビッグブラザーへ ~話し合わなきゃダメな理由~

E88196E5BEB3E5A4AAE5AD9020E799BEE58686E69CAD.jpg





21世紀に活躍するビッグブラザー達へ
知ってるとお得な、日本人の性質に関する情報をお届けします。 

これから大喜利世界を作られる人、
日本人組織で出世したい将来有望な人などは、ぜひ知っておくべきです。

学校では教えてくれません。



僕らがやってる大喜利は
信頼関係があった上で審査しあう、という特徴があるので、
コミュニティーが無ければ存続できません。

その時、強引なやり方をしたらコミュニティーは作れませんし、維持できません。
話し合いをしなければ回らないのです。

なぜなのか?

日本人は強いリーダーシップを何よりも嫌います。
話し合いがない場所を憎みます。

日本人組織において強いリーダシップは罪です。それだけで罪になります。
だから罰があります。歴史を見ても強いリーダーは暗殺されてきたのです。
そういう民族なのです。




この画像をご覧ください

世界価値観調査2005 権威や権力はより尊重されるべきですか?



これはイングルハートという人がやっている「世界価値観調査」と言われてる物の2005年版データの一部です。
このアンケートは世界中の人に「権威や権力はより尊重されるべきですか?」という質問をしたものですが、

日本人は世界でもダントツで最下位なのです。3.2%です!たったの!
権威、権力大嫌いなんですね。

個人主義と言われている、アメリカでさえ、59.2%
傍から見ていてあまりお近づきになりたくない中国共産党を有する中国でさえ、43.4%
権力は必要であると答えているのと比べると、驚異的な低さです。

日本人は臆病なので、表立って権力者に反対などしませんが、裏では怒りが渦巻いています。
面従腹背が得意なので、表では「その通りでございますね~」とニコニコしていますが、
裏では壁の写真にナイフを突き立てています。そういう民族なのです。

その我慢も限界を超えると今度は殺す、もしくは失脚させる事を考え始めます。

今もそうですが、昔からそうなのです。

歴史上で強いリーダーシップを発揮しようとした人の例

平家   ・・・・すぐぼされました。
足利義教 ・・・・家臣に暗殺されてます。
織田信長 ・・・・家臣にされました。
徳川綱吉 ・・・・今でもバカにされてます。犬野郎です。
井伊直弼 ・・・・暗殺されました。

まったく恐るべき民族なのです。

しかしこの恐るべき民族は統治されてきたのです。
どうやって統治されてきたのでしょうか?

その答えが 聖徳太子 です。

聖徳太子の書かれた17条の憲法です。

一番大事なことは最初と最後に書いてあります。
小学生で習う懐かしいアレです。


十七条の憲法

現代語訳 
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。
それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、
おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。


現代語訳
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。
かならずみんなで論議して判断しなさい。
ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。
ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。
そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。



聖徳太子は十七条の憲法の最も重要な最初と最後において、
「悟っている人は少ない。とにかく一人で物事を決めるな、皆で話し合え。そうすれば皆うまくいく」

と説かれました。これが日本史上トップクラスの天才であり、お札にもなった人の言われる事です。
1400年も前に、日本人の本質を見抜き、日本人がどう生きたら良いのかを教えてくれているのです。

良い事いうな~と思いませんか?
さすがお札だ!と思いませんか?

これは実は宗教です。

よくよく考えてみるとおかしい事を言っています。
「真理」と「皆が納得するかどうか」は関係がありません。

皆が納得しても、そこにいる全員が間違っていれば上手くいく事なんてありません。

科学が発達する前は「地球の周りを太陽が回っている」とずっと信じられてきました。
いいや!「太陽の周りを地球が回っている」という人は裁判にかけられたのです。

これなんか「真理」と「皆が納得する事」がイコールではないという良い例です。

全員が間違えていたのです。

「真理」と「皆が納得するかどうか」は関係がないんですが、

それは日本においてはどうでもいい事なのです。

「皆が納得するかどうか」こそが最も重要な事なのです。

これが日本人の宗教です。

無自覚の宗教なのです。

日本人は「話し合い絶対教」の信者です。ここを間違えるとすべてが上手くいきません。

宗教です。これは理屈ではないんです。
だから絶対に、絶対に覆せません。

もしかして皆さんの中には、

「話し合いなどしなくても、正しいことをやれば、認められる」

と思ってる人がいませんか?
それは絶対に絶対にありません。

よく勘違いされます。特に西洋に留学したような人が勘違いします。

日本人は話し合いをしない者を絶対に許しません。
話し合いをせずに正しいことをしても、絶対に絶対に認めません。

逆に皆で話し合いをした結果、あとでそれが間違いだった場合、絶対に絶対に許します。
いや、責任者すら作りません。全員で納得したことですから。

太平洋戦争の敗戦やら原発爆発の騒動を見ていただければよく分かると思います。
あれ結局、誰が悪かったのかうやむやです。

それが日本の宗教なのです。「話し合い絶対教」の信者の姿なのです。



日本における指導者の資質は「妥協」です。


今の政治家や大組織のトップに目を向けて下さい。
妥協できる温厚な人が多いはずです。
気性の激しい人、一本気な人、規律正しい人、白黒ハッキリつける人、理屈っぽい人
まったく出世できません。「優柔不断な人」が伸びるのです。
他人との関係に気を配り、それを大切にして簡単に崩さない人が伸びます。
誰にでも良い顔をする八方美人、話し合いをする人です。

よくマスコミなどで
政治家は言う事がコロコロ変わる。強いリーダーが不在。しがらみがある。という話を聞きませんか?
実はそれでいいんです。 それで正解なんです。そうでなければ日本で出世できないんですね。

※危機の時はこの限りではありません。危機感を煽られている時は、強いリーダーが登場する事もあります。
 小泉元首相や橋下元大阪府知事などはそうです。しかしあの時もアレルギー的な強烈なバッシングがありました。
 むしろ例外的な存在です。


歴史に目を向けてみてもそうです。
織田信長が家臣に殺されたのを見たからなのか、徳川家康は天下をとった後、
絶対的な権力者になろうとはしませんでした。自分の息子を絶対的な権力者にしようともしませんでした。
むしろ優秀な家臣たちの合議制にして、上がどんなにアホでも国が回っていくような体制を作りました。
それが徳川250年の安定を作り出したのです。

また天皇制においては権威を天皇が、権力を現政府が持つようにし、
権威と権力を同時に持つ絶対者が出ないような工夫がされています。
パワーを分散しているわけです。

とにかく権力を一極集中しないようにして皆の話し合いで解決する。

これが日本人のDNAに刷り込まれている行動様式なのです。


なぜ「話し合い絶対教」という宗教を持つに至ったのかは予想しかできません。
おそらく農耕に長い間かかわっている中で、勝手なことをする人がいた場合、
その人の畑だけダメになるのではなく、周りの人の畑もダメになるような環境に
ずっと置かれた中から出てきたのかもしれません。

そして日本人はかなり現実主義者です。「自分が得するかどうか」
これが最重要課題です。話を聞いてくれない人は、「自分を得させてくれない」
と判断するのかもしれません。日本人は権威や権力が嫌いです。
「自分を得させてくれる権威」唯一これだけを認めます。



とにかく日本人の心の根底にはそういう流れがあるのです。



この流れに逆らう事もできるでしょうが、無駄にエネルギーを使うだけです。
これはこういう物なのだと受け入れて、日本人は「話し合い絶対教」という
宗教の信者なのだと受け入れて、川を泳ぐ方がはるかにお得です。

日本人のコミュニティーは話し合いを基盤にしないと成り立ちません。


難しいことは何もありません。お札の人が言う事は正しいのだと受け入れて
お札を崇めるだけでいいのです。
それだけで、事はスムーズに運ぶのです。



お札は偉いのです。



shozo (1)



十七条の憲法

現代語訳 
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。
人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。
それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。
しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、
おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。


現代語訳
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。
かならずみんなで論議して判断しなさい。
ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。
ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。
そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。







スポンサーサイト

ネット大喜利の拡大を鼻にワタパチを詰めながら考える~その終~

200905081957185af.jpg










その1(マジックナンバー200)  
その2(競技であるか、ないか)



みんな~~ よくきたね~~

ぷ~~  ぷ~~

肩の力を抜いて~~  さあ最期のお話がはじまるよぉ~~ ☆




人間には序列のない集団を作る時に
人数的な限界があり(マジックナンバー200)
僕たちが競技を行うバトルフィールドは自然に200人に抑え込まれます。

この競技の状態を維持したまま人数を拡大していこうと思ったら、
200人しか入れない箱に1000人を無理やり入れようとする事ではなく、
200人の箱をたくさん作る事を考えるべきです。

そしてそれらの箱の上にもう一個、「勝利者たち200人の箱」を置く。
上位バトルフィールドを作ってしまうのです。
勝ち抜いた人たちが集まる上位バトルフィールドを作るのです。
これだけでマジックナンバー200の問題は解決します。

例えるなら
自分がセ・リーグだとしたら、どこか別にパ・リーグを作り、
その上に統合的な日本シリーズを作る。

自分が高校野球の青森県大会だとしたら、どこか別に鹿児島県大会やら神奈川県大会やらを作り、
その上に統合的な甲子園を作る事です。

つまり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


(200)



これを


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



(200)(200)(200)(200)(200)




こうして

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


      「200」


(200)(200)(200)(200)(200)



こうです

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで肝心なのは「下位バトルフィールドは掛け持ち禁止にする」
という事です。
セ・リーグとパ・リーグ両方参加してるチームがないように
高校野球の青森県大会と鹿児島県大会に両方参加してるチームがないように
この体制には掛け持ちの規制が必要になります。

しかしこれでは下位バトルフィールドと上位バトルフィールでの
「同一お題 同一審査員」が崩れてしまいます。
それはもう、しょうがないだろうという事です。
段階的なバトルフィールド制でお茶を濁すしかないだろうという事です。

下位バトルフィールドでの得点が上位バトルフィールドでの戦いに影響すると問題ですが、
下位バトルフィールドでの順位が上位バトルフィールドの参加権利になるくらいの
関係なら問題がないと思います。

日本で面白い人間を決める最もベストな競技の形は
1億3000万人が全員ボケを1つ投稿
1億3000万人が全員審査員となり
一人一人が1億3000万個のボケを審査

結果を集計して1位から1億3000万位まで決定

という形になると思いますが、それは人間には不可能だからです。

残された可能性の中で最も納得しやすいのがこの形じゃないか?と思っています。
スポーツなどで慣れ親しんでいる形だからです。

細かい問題は無限に出て来ると思いますが全体図としてはこれです。

マジックナンバー200を抱えたまま、今の感覚のまま拡大していく方法として
有力なのではないか?と考えています。

この形でなら、優勝者だけ集めるなら
200×200=40000人までいけるポテンシャルがあるのです。
そこまでいかなくてもバトルフィールドが5つあるだけで 1000人いけます。
これは結構現実的な数字だと思います。


ただでさえサイトから人が減ってるのに
夢のような事を言っているように思えるでしょうか?
僕は最近の1つのサイトに対する人数減少についてはかなり楽観的に考えています。
それよりも人数が増えてしまったとき、200で止まってしまう事の方が遥かに
重要な問題なのです。


では

(200)



(200)(200)(200)(200)(200)

に増やしていくにはどうすればいいのでしょう?
具体的な方法を考えます。


方法の一つとしてはネット上にすでにある、
人がめちゃくちゃ集まっている有力コミュニティーに大喜利バトルシステムを与えて
ネット大喜利文化を育てる事です。

まっさらな土地に大喜利の種を植えこみ開花させるのです。

幸い最近ではフリーの大喜利プログラムなどの設備が整ってきています。
それらを使って文化を広げていくのです。

例えば、スプラトゥーンの集まりに出向き、
「俺達スプラトゥーン好きの中で誰が一番大喜利強いか決めようず!」
とか言ってそそのかすのです。
我々のネット大喜利コミュニティーに引き入れるのではなく、
彼らの中に新しく大喜利コミュニティーを形成します。

そして公平な勝負と
勝負の結果生まれる順位やランクなどで
ゲームにハメていきネット大喜利中毒にしていくのです。

このやり方は伝統的なやり方です。
PHPだって、
2ちゃんねるという巨大な川の水を引き入れて大きくなったのです。
僕自身、狼板の住人ですから。

ネット大喜利サイトの本質は寄生です。
有力大手サイトに集まっている人をオオギリストに変えていくのが
一番上手いやり方だと思います。

まとめサイト、巨大掲示板、MMORPG、他人気ネットゲーム、
ニコ生、youtube、動画配信サイト、

候補はいくらでもありますが、
実は、bokete や アメーバ大喜利 も狙い目だと思ってます。

なぜなら、何度も言ってますが、彼らは「競技」をやってないからです。

「皆さん今、順位がそうなってますけど、本当に平等な環境で皆さんが勝負したら
 どうなるんでしょうね? もちろん審査員は我々じゃないです、皆さん自身です。
 皆さんが認める上位200人、その人たちが、ガチで平等な勝負したら・・・
 どうなるんだろうな~~~?
 ここにそれが可能なシステムがありますよ?」

とか言ったら、食いついて来るんじゃないかと思います。

彼らは敵じゃないんです、むしろ客です。有望な客です。

しかし仮に開花したとしても、そこでも200人の壁が立ちふさがります。
大喜利植民地の皆さんはうろたえるわけです。

その段階になり、我々は接触します。

「困っているようですね。「マジックナンバー200」というものがあります。
 だから僕たちのバトルフィールドは200人で打ち止めになります。
 しかし上位バトルフィールドを作れれば 4万人世界になります。
 一緒にどうですか?」

「はいやります」

これです。

こんなに上手くいけばいいんですが、そうはいきません。
ウガジくらいのカリスマが必要になるでしょう。

でもたぶん未来はこの先にあるんです。この先にしかないんです。

夢を持ちませんか? 淡い夢を
200人の世界の先には40000人の世界があるんです。



他の方法も考えてみます。

我々のサイトの拡大可能性を考えます。

マジックナンバー200が働いて、人が押し出されるのを防ぎましょう。
人が押し寄せてきた時、200人に近づいたらバトルフィールドを分断するべきだと思います。
そして掛け持ちを禁止します。
古参が押し出されるのを防げるようになるでしょう。

分断した状態なら空きがあるのでオオギリストを増強できます。
そこで巨大サイトに寄生し、人を流し込むのです。

セ・リーグとパ・リーグのように分かれて年に一度
日本シリーズが出来る世界になります。

それだけで、今の2倍の集まりになります。



終わりに


パイが200人の所で何をやろうったって何もやれません。
グッズを売って金儲けを画策しようにもパイが200人では小遣いも稼げません。

しかしこの形ならどうでしょう?
上位バトルフィールドの優勝者は名目的に4万人の頂点です。

神の誕生です。

上位バトルフィールドに関係する事は注目度が高い物になるはずです。
4万とはいかないにしても、千の注目はあびるでしょう。
そこでラジオをやって、支持されれば、リスナー数だって千や万はいくでしょう。
そこまでいけば、多少の社会的影響力もつくでしょう。
グッズを売って金儲けを画策してごらんなさい、田園調布に家が建ちますよ。

僕たちにとって、最も利益になる事は、競技人口が増える事なんです。
同じフォーマットで競技してる人が増える事なんです。
同じ言葉で会話出来る人が増える事なんです。

マジックナンバー200があるので、現状では、4万人の統一大会の可能性は0パーセントです。
が、この形なら1パーセントくらいにはなります。




ネット上には未知なる可能性があると思います。

新しいネットコミュニティーを形成できれば、あなたはそこではブッチぎりの存在になります。
強さやボケの質は言うに及ばず、どういう企画をすれば盛り上がるのか、どういう問題が起こるのか
あらかじめ全部知っているからです。経験しているからです。

未知なるフロンティアならば、あなたは
その場所の「ちゃんこフォンデュ」にだってなれるし
「クロブチ」や「んじょも」になれるわけです!

評価を根こそぎ獲得できるわけです!

めちゃめちゃ尊敬されて、もしかしたらモテモテ進研ゼミになるかもなのです!!


夢を持ちませんか? 淡い夢を
既存のシステムを他の世界に広げ、新世界の支配者となるのです!
そしてそれが、ひいてはネット大喜利全体のパイを増やす事に繋がっていくのです!!
そして多くの人間がオオギリストになっていけばそこから
物凄い質をそなえた100年残る天才が出て来るかもしれないのです!

ネット大喜利はその時を今か今かと待っているのです!!


ゐえ~い


----------------------------------------------------------------------------------------

補足



ちゃんこF氏から「なんで200人なの?見る人がいればもっと増えるよ?」

とのご指摘を頂き
長くなって読んでもらえなくなる事を恐れるあまり
省きに省いた部分が重要だった事を思い知ったので補足します。

ネット大喜利で何万もの人から褒めてもらうにはどうすればいいか?
という趣旨で始まったこのシリーズですが

方法には2種類あります。

それは「ネット大喜利を演芸として見せ、観客に褒めてもらう方法」
と「ネット大喜利を競技としてとらえ、競技者から褒めてもらう方法」です。

今回僕が言ったのは「ネット大喜利を競技としてとらえ、競技者から褒めてもらう方法」
なんです。


確かに「ネット大喜利を演芸として見せ、観客に褒めてもらう方法」ならば、
僕たちのバトルフィールド200人を観客に見せるという形ならば、
万人から褒めてもらえる可能性があります。
しかし、それなら「bokete」や「アメーバ」やった方が早いという話になってしまうのです。


我々のネット大喜利競技を演芸として見せ、観客に褒めてもらうには幾つか問題があります。

第1「そもそも注目されてないから宣伝しなきゃいけない」

巨大な資本やマスコミとの連携、また奇跡的な口コミ爆発現象などなど、
有名になるためには、とてつもない金とコネ、または運が必要になります。

「bokete」や「アメーバ」はすでにそれを獲得しており我々は持っていません。

そしてそれを期待してもしょうがないだろうという事なんです。
これに関しては出来る事は何も無いわけです。

我々の中にパチンコ屋の御曹司でもいれば別ですが。


第2「受けやすい画像お題ばかりじゃない」

「bokete」や「アメーバ」は、ほとんど画像お題です。
画像はPHPでもゲラが1.5倍つくというデータがありまして、
文字だけのものより受けやすいんです。
それを彼らは知ってるんだと思います。
受けない無駄な事はしない主義なんですね。マネーですね。
それに比べて我々は必死こいて文章お題も好んでいます。
硬派なんです。不器用ですね。


第3 大多数の観客には理解できない試合展開になる

差別心を承知で書きますが、
ボケには「何にでもソースだ!味が濃ければウマいだろ?」のごとき
誰でもすぐに思いつくインパクトが強いワードをとにかくブチ込んでいくやり方
とそれ以外があります。

・何にでもソースだ!味が濃ければウマいだろ?
ボケ例
(マツコデラックスが何々・・・松岡修造が何々・・・勇者の剣が・・・タンスの角に小指が・・・
 先生をお母さんと呼んじゃって・・・ヤムチャが・・・アンパンマン新しい顔よ・・・)

「何にでもソースだ!味が濃ければウマいだろ?」のごときボケは
大喜利経験のない人に、とてつもない威力を発揮します。
脳内にボケの記憶が大量に無く、比較ができないからです。

我々のネット大喜利大会に参加するような人は
PHPオオギリ経験1万回以上とか
長考サイトやり初めて3年以上経ってますとか、そんな人たちです。
だいたいがその手のボケをやりません。
ソースをかけられると食傷気味になります。
「もうそれいいよ。飽きたよ」となります。

しかし「ネット大喜利を演芸として見せ、観客に褒めてもらう」という事は
観客のために「何にでもソースだ!味が濃ければウマいだろ?」のボケをしないといけない
という事になるんです。
僕はそれでは競技にならないと思います。本気になれないからです。
また競技を見つめる客は
自分たちが面白いと思う物が勝ちあがらないのを見て口をポカーンとさせると思います。

詩は詩人に見せろ

という言葉があります、詩人の細かな心配りは結局、同じ詩人が一番わかるんだ
という身も蓋もない言葉です。
僕は大喜利に関してもそうだと思います。
恐らく、ネット大喜利上級者が好むボケは、初心者に対しては薄味に感じると思います。
高級なものは繊細で薄味なのです。 

「何にでもソースだ!味が濃ければウマいだろ?」 に対して「繊細で薄味な京料理」なのです。

この京料理の良さをすぐわかる人は、そんなにいません。

観客にとって納得のいかない結果が連発するであろう競技ネット大喜利は
分が悪いのです。

競技から離れて、観客に対してボケ単独で見せていければまだチャンスがありますが、
それならやっぱり「bokete」や「アメーバ」をやった方が早いのです。

逆に

僕が「ネット大喜利を競技としてとらえ、競技者から褒めてもらう方法」を中心に考えている理由は、
この形の物がまだ無いからです。相手がやっていない事なので、勝負に持ち込めるのです。
対極に位置しているから話を聞いてもらえるのです。
だからここが武器になると言ってます。

さらに「ネット大喜利のボケが理解できる人間を育てよう」という魂胆があるのです。
僕は脳内に大量にボケの記憶が蓄積していけば、大抵の人間は
幾つかの山はあれど、だいたい同じ地点に着地すると考えています。
センスは情報量に比例すると考えています。
そうなってくれれば、我々がボケの中に入れ込む
ちょっとした心配りなども理解できます。
とにかくゲーム中毒にして数をこなさせるのです。そこから道が開けます。

そして、競技者として参加させた方が、執着が強くなると思うからです。
僕自身、ネット大喜利をやる前は、見ず知らずの素人の大喜利になんて
何の興味もありませんでした。それを見るようになったのは、自分が関係したからです。
ここはかなりデカイと思います。
いや、宣伝する力が無い者にとってはここが生命線になると思います。

最後に根源的なところでは僕の思想が関係してきます。

運の要素が強い「宝くじ世界」よりも
実力が左右する「競技世界」の方が好きなんですね。

大資本やマスコミなどによって与えられたスターという物に僕は苦々しいものを感じています。
お上から与えてもらったスターです。

「偉さの根拠」「凄さの根拠」がよくわかりません。
「システムにすり寄って、宣伝してもらっただけでしょ?」
「運でしょ?結局、評価の連鎖反応が起こっただけでしょう?」
という想いが湧きあがってきます。
なぜあなたが特別なのか?の根拠が薄い気がするのです。

いやわかりますよ
「だからいいんだ!その理不尽さがいい!」
「根拠など必要ない!偉い根拠は、偉いからだ!」
「誰でもなれそうな人だから親近感が湧いて、崇めやすいんだ」
「芸能の本質はわけのわからない尊い物をあがめたてまつる事だ!」

とかわかります。
日本人はそういうの大好きなんです。
印籠見せられて、へーこらするの大好きなの知ってます。

でも、他の形もあっていいでしょう?

凄い理由は、200人と平等な競技をし、勝ち抜いた存在だからです。

凄い理由は、その勝ち抜いた人たちを集めた競技会で、さらに勝ち抜いた4万人の頂点だからです。

というのがあってもいいはずです。

俺達のスターは俺達が決める!   
選び出す!

そんな世界があってもいいんじゃないでしょうか?

そしてインターネットはそれを可能にする、僕たちに与えられた
歴史上初めての手段であるという事なんですよ!みなさん!




運が左右するような「宝くじ世界」など打倒せよ!

そこには「競技世界」を勝ち抜いた

強者が1人いればいい!!





ゐえ~い



ネット大喜利の拡大を畳でゴロゴロしながら考える~その2~

201009020133143a9.jpg




「ネット大喜利の大会は参加人数が何故か200人前後に集束する」
このことを超えて、何万人もの人間が参加する世界にするには、どうすればいいの?

まずは原因の特定だ!そして解決策だ!
そのためにはキーワードを理解する事が必要だ! の続きです。

前回は「マジックナンバー200」の説明でした。



今回は「競技であるか、ないか」です。

競技というものは「同じ条件」のもとに競われなければ何の意味もないんです。
そうでなければ競技にならないんですね。

方や、105メートル走のタイムを計り、方や95メートル走のタイムを計り、
そのタイムを比べて勝ったとか負けたとかやっても意味がないように、
競技の第一の条件は
「条件が同じである、平等である」という事なんです。
何を当たり前の事を・・・と思われたと思いますが、いやこれすっごい大事なんです。

ネット大喜利界隈を見まわして下さい。 「競技」をやってるとこなんて、
ほっとんど! ほっとんどぉっ!!ありません。

大喜利において同じ条件で競う事を厳密に考えていくと、
競技の為の条件は「同一お題、同一審査員」になると思います。

例えば、PHPの赤い部屋、1000回で1シーズンの得票率での争い
あれは競技になっているでしょうか?
厳密に考えれば、なってないんです。
一回一回の勝負ではなっていますが、得票率での勝負になると
苦手なお題を避けられたり、審査員が違ったり、同一条件にはなっていません。
そこで
「あいつは昼の人数の少ない時に受けているだけ」
「あいつはお題を選んでいる、卑怯」
「あいつは素人を狙い撃ちにしている、使いまわしのボケをしている」
等々のおなじみの批判が出てくるわけです。
これは悔しさもあるんでしょうが、「競技になっていない」から出てくる批判なんです。
「同一お題、同一審査員」になっていないから出る批判なんです。

ではこれをどう解決しているのか、青い部屋の「企画」で解決しているんです。
青い部屋の企画は「同一お題、同一審査員」の「競技」になっています。

PHPというサイトは赤い部屋の得票率勝負という不完全な競技性を、
青い部屋で補っているという構造をもったサイトなんです。


ツイッターはどうでしょうか?

ツイッターのふぁぼを巡る争いは競技でしょうか?
これは競技ではないと思います。
なぜならフォロワーが多い方が圧倒的に有利だからです。
例えば、僕と「きゃりーぱみゅぱみゅ」が「ふぁぼ」勝負をしたとしましょう。
380万フォロワ―がいるぱみゅぱみゅはTシャツになった画像を載せるだけで1万ふぁぼ
くらいはつきます。
片や400フォロワーの僕はどんな面白画像を載せたところで、1ふぁぼつけばいいくらいです。
これは競技になりません、注目している審査員の数が違うからです。
評価機会が平等じゃない。同一審査員じゃないんです。

アメーバ大喜利はどうでしょうか?

ざぶとんを巡る争いは競技になりえるでしょうか?
アメーバは誰がボケを出したのかがわかるシステムで、やはり注目度の高い人の方が有利です。
票をもらったら、そのお返しに票を入れるという「おかえしざぶとん」なるマナーもあるらしく、
人間関係や、組織力の勝負になりつつある、人づきあいが上手な、豆な人が有利という話もあります。
これも評価機会が平等じゃなく、
同一審査員ではないので、競技とは言えません。


boketeはどうでしょうか?

星獲得を巡る争いは、競技と言えるでしょうか?
boketeは票を入れる瞬間にはボケを出した人の名前がわからないシステムになっています。
そのため競技性はそこそこ高いのですが、
個人のページに行けばその人の出したボケがわかりますし、
「お気に入り」マーキングをされれば「お気に入りタイムライン」にボケが自動で掲載される等、
有名人や人気者の方が人の目につく機会が多いシステムであるために、
やはり、評価機会の平等がありません。競技になっているとは言えないでしょう。

bokete、アメーバ大喜利では、その他にも、お題を選び放題なので、そもそも苦手なお題をふられて
困る事自体がなく、同一お題という条件からも自由です。
ツイッターではもともと、お題すらありません。当たり前ですけど。

また、
「一度注目されたボケはどんどん目立つ場所に移動する」
「審査期間が決まっていない」
「人の審査結果を見た後に審査できる」
という特徴があり、一度注目されたボケはどんどん後から評価が膨れ上がり、
まるで雪崩のように「評価の連鎖反応」が起こります。

(これが1万以上の評価を得られる秘密です。)



これらの要素によりこの3つのサイトは評価機会に平等性がなく、
競技になっていないのですが、
そもそも、最初から競技なんて目指していないんだろうと思います。
我々のネット大喜利サイトとは、まるで別物なんですね。

今見て来たように、だいたいの大喜利サイトは実は「競技」をやっていません。
「競技」になってないんです。 風にしかなってないんです。
「競技風」です。

競技として厳密に考えるなら「同一審査員、同一お題」でなくてはいけない。
そうでないと、条件が同じにならない、平等性がないわけです。
笑点だってそうでしょう?
95メートル走の人と105メートル走の人のタイムを比べても仕方が無いわけです。


そして、同一審査員を考えるなら、その審査できる限界は、前の記事で見たとおり、
200人なんです。マジックナンバー200が働くからです。

投稿者が審査員を監視できる限界が200人
審査員がボケを監視できる限界(通信簿をつけれる限界)が200
サイト運営者が参加者を監視できる限界が200人

200 200 200 で200に集束していきます。

我々が10年近くの歴史でたどり着いたシステムですが

これが一番バランスが良いんだと思います。

さらにそこに、

「匿名審査」
「全体投票」
「投票期限あり」
「人の審査結果を見ないで審査」

も加わり、より競技性を高めています。(評価の連鎖反応が起こらない。)
とてつもない普遍性を持っています。 

そしてこの非常に高い平等感の中でこそ、真の競技が可能になり、
真の競技の中でこそ、真の成長があるわけです。

潜在能力の発揮というものは
勝てるか、勝てないか、わからない、熱いギリギリの勝負によってのみ
起こりうるものなのです。

それを可能にするのは、真の平等の上に築かれたシステム、
つまり我々のシステムだけなのです。


我々は「競技」をやっています。 

これこそが我々の最大の武器となる言葉です。
これは他のサイトの人たちにショックを与える事ができます。
ここを推さないと他、推すとこないです。

逆にいえば、boketeやアメーバの人たちは敵じゃないんです。
お客様になりえる人たちなんですね、なぜなら彼らは、平等性の高い競技というものをやってないからです。

「君たち、今実力以外のとこで差がついてるようだけど、本当にガチでやったら誰が一番強いんだろうね?
 それができるシステム・・・すでにあるよ」と言えば息をのむと思います。

というところで
キーワード「競技であるか、ないか」の説明を終わります。

次回やっとこさ最終章です。
「マジックナンバー200」「競技であるか、ないか」を経て、次のネット大喜利の形とは?
きたるべき新時代とは? バカバカしき解決策編に入ります。

その3

ネット大喜利の拡大を畳でゴロゴロしながら考える

200.jpg















「優勝しても200人から褒められるだけじゃ少し寂しいな」

ネット大喜利に関わっていて、そう思った事ありませんか?
僕は思ってました。

ネット大喜利の大会は参加人数が何故か200人前後に集束します。

PHPにおける、CS、世代別対抗戦、ニコ生コミュ対抗戦、
ぼけおめにおける、むーちー、ぼけおめトーナメント、
ネタボケライフにおける、2000回記念、等々を見ても明らかです。
その上、生大喜利における、天下一武道会もそうです。

一方企業である、ツイッター、bokete、アメーバ大喜利などは、どうでしょう?
あっちでは突き抜ければ何万人からも褒められるという、景気の良い話が聞こえてきます。
方やこちらは200人。寂しくなるのも仕方がないというものです。

これは何故なんでしょうか?
これがネット大喜利の限界なんでしょうか?
ずっとこのままで季節は過ぎ去っていくのでしょうか?

僕はそうは思いません。

これは脳に住みつく悪者の仕業です。
本来はもっとポテンシャルがあるのに、それを阻む物があるのです。

そこを突破できれば、ウン万人の世界にだってたどり着く事ができます。
何万もの人間が大会に参加し、勝利者には何万もの称賛が贈られる世界ができます。

それに関わるラジオの配信だって何千人、何万人が聞くようになります。

そうなれば社会的影響力だって多少はついて来るでしょう。

そんなことができるのか?と思われたあなた!できるのです!最後まで読めばわかります!


前回の「ネット大喜利の集客はガラスの天井でござんす」と似ていると思われた方もいると
思いますが、前回は「現状肯定」で終わりました。
今回は「解決策」になっているので前進しています。

この話は、まず原因の推測から入り、そしてバカみたいな解決策に移行していきます。
問題を考えるには、いくつかのキーワードが必要になり、それの説明からしないといけません。
熱く長く得しない戦いがこれから始まります。



まずは、問題解決のための第一キーワード「マジックナンバー200」の説明からです。



ネット大喜利大会の集客が200人に集束していくのは、人間の脳にマジックナンバーが働くからです。
マジックナンバーとは
「人間が集団を作る時に、自然に集束していってしまう数」の事です。
「5」「50」「200」という数にまとまっており、
顔と名前が一致する程度の集団なら200人くらいになります。
これを「マジックナンバー200」と名付けます。

これくらいの人数が序列や政治的圧力無しで、フラットな人間関係を維持できる限界になります。
顔が見えるので、個々の義務感や相互依存、構成員同士の社会的圧力だけで集団が回っていくのです。

例をあげると、ケータイ、アイフォンに登録されてる友人の数、年賀状を出す人の数、
本当に見る気のあるツイッターのフォロー数、セクション制のない企業の人数、伝統的な村の人数などなど
前回の記事「ネット大喜利の集客はガラスの天井でござんす」に書いてある通りです。

そして限界である200人を超えると、顔と名前が一致しなくなり、
集団が「あの学校のやつ」とか「日本人」とか「人類」とか、
大きな塊にしか見えなくなるようなのです。
大きな塊にしか見えなくなると、個々の義務感や相互依存、構成員同士の社会的圧力が働かなくなります。
そうなると、集団の一体感が無くなります。
よって集団は瓦解します。 分裂していきます。

これ僕が勝手に言ってるんじゃなくて、進化心理学で言われてるみたいです。
ダンバー数という呼ばれ方もしてるみたいです。その時は150人になるみたいですが。



この「マジックナンバー200」はネット大喜利大会を何重にも縛り付け
参加者を200人に抑え込みます。

どう作用しているのでしょう?
全体投票制の大会をもとに考えます。

第一に
●審査員の顔が見えないと参加しない層がいる

認めてもいない、誰が見てるかもわからない集団の全体意思に自分のボケを審査してもらうのは
腹が立つものです。結果がどう出ても、納得いかない物を感じます。
「俺が負けてる?そんなもん知るか!お前らがおかしいんじゃ!何かよくわからない奴らだし!そもそもちゃんと見てる?」です。
この納得のいかなさを嫌う層が、かなりいます。
ですので自分の見わけがつく範囲である200人を超えると全体投票制の大会に参加する人の数は減ってしまいます。

第二に
●そもそも投票できない

「マジックナンバー200」は投票行動にも影響しており、人はどうやら一度に200のボケくらいしか審査できません。
審査意欲が湧かないんです。
ネタボケライフを見ていただけるとわかると思います。投稿者が200人に近づくとどんどん審査が遅くなり止まります。
また、一度200人くらいの大喜利大会に参加されるとわかると思います。
たいへんな重労働です。
大規模大会が400人クラスになる事がありますが、それは参加者の大半が「大会の投票とはどういうものか」を知らない場合に
限られるように思います。実際一度体験すると、次の大会からは200人くらいになります。しんどいんです。

全体投票制の大喜利大会に参加する事、サイトに参加する事とは
例えるなら「学校でそのクラスの担任になる」という事と同じなのです。「そのクラスの通信簿をつける」
という事と同じなのです。

「50人のクラスで通信簿をつけろ」と言われたら、まあまあこなせると思います。
「200人のクラスで通信簿をつけろ」と言われたら、汗をかきながらも精神力でこなせると思います。
では「2500人のクラスで通信簿をつけろ」と言われたらどうでしょうか?逃げ出しませんか?
これがネット大喜利の大会で起こっている事なのです。 逃げ出しているんです。
担任の先生はあまりに生徒が多いと逃げ出すんです。

第三に
●管理する人間もやる気が起きない

「マジックナンバー200」は参加者だけじゃなく管理する人間にも働きます。
これも担任の先生だと思うと分かりやすいと思います。
個人を一人一人見ていく管理をしていると200人のクラスを担任してるだけで、もう手いっぱいです。
学校では50人が限界ですから。
人間には無理なんです。だから「拡大しよう」という気がそもそも起きません。
そのための手段も考える気にならないでしょう。
これ以上の拡大を望むという事は
200人のクラスをもち、アップアップしている先生に
「あなたは、200人も生徒を担当して大変ですね、では、もう1クラスもってみては、どうでしょう?」
と言っているに等しいんです。キチガイの要求ですね。

PHP、ぼけおめ、ネタボケライフ等がこれ以上、人数の拡大の気配がないのは、
管理する人間が、そもそも呼ぶ気が無い、広げていく気がない、そういう意欲が湧かない、
というのも大きいと思います。

生大喜利の天下一武道会が200人なのもこれが原因だと思います。
以前、主催者の方が音源で仰った内容によると、
主催者の方は参加者がボケの内容で問題を起こしてしまった時、すべて自分で責任をとる気でした。
そして責任をとっても良いなと思えるのが、顔が見える範囲の200人くらいなので、現在の規模になっている。
との事だったのです。
これも「マジックナンバー200」だと思います。
それを超えると個々の顔が見えなくなり責任をかぶる意欲がなくなるんです。


他にもたくさんあると思いますが、とにかくネット大喜利の大会が200人に抑え込まれていくのは、
「マジックナンバー200」が関係しているのは、ほぼ間違いないと思います。

200人を超えてしまうと、コミュニティーに一体感を感じれなくなり、興味が無くなるという形で
そのバトルフィールドから無意識に人を押し出して行ってしまうのです。

ここが肝心です。「無意識に」なんです。
自発的に興味が無くなったので去っていると自分では感じていると思いますが、
実は「無意識に押し出されている」んです。

この「無意識の押し出し現象」を何とかしなければいけないのです。

以上で第一キーワード「マジックナンバー200」の説明を終わります。

ではこの「マジックナンバー200」をどうやって破るのか?

言うんですけど、その前に説明しなければならない事があります。
それは「競技とはどういう時に成立するのか」です。

次回のキーワードは「競技であるか、ないか」です。興味ひかないですね。

でもめちゃくちゃ大事。(保険CMの宮迫)

その2

ネット大喜利の集客はガラスの天井でござんす

bdcam 2014-03-03 22-06-38-375

ネット大喜利の集客には200という数字がついて回る。



長考大喜利の大会も数回400人規模な事があったが、しだいに150~200に収束していった。
ニコ生コミュ対抗の企画も200人台、PHPのCSも最終的には200に落ち着いた。

これは偶然なのか?それとも必然か?

今現在、ネット大喜利サイトの通常運営の集客数は
ネタボケで100人前後、ぼけおめのリーグは130人前後、
PHPのランキングは150人前後といったところだろうか。
一時の盛り上がりから見て少しさみしくなっている。
個々のサイトから運営していく事への熱が薄れていっているようにも見える。
その原因の一つに「ある時から人が増えなくなった」というのがあるんじゃないだろうか?
無限に拡大していくような気がしてたのに伸びていかなくなった落胆があるんじゃないだろうか?
それは他の大喜利サイトの影響だけだろうか?
「しょせん個人では企業には勝てませんよ」
というツマラナイ話だろうか?
そこには他の要因がある。

そこには・・・人間の生理に関する秘密があるのだ!


マジックナンバーという話を聞いた事がある。
人間は集団を作る時に「50」「150~200」という数字に収束されていく。


「50」
※例 学校のクラス AKB48

学校のクラスが50人なのは理由がある。先生が生徒の個性を把握して指導できるのがそれが限界だからだ。
AKBが48人なのも、学校をモデルにしているからと言われている。
そしてそれくらいの人数が、お客さんが個々のメンバーの個性を把握できる限界でもあるのである。
(今は下に凄い数いるけど)


「150~200」
※例 ケータイに登録されてる友人 年賀状 絞った後のツイッター セクション制のない企業の人数
物凄くフォロワーがいる人も自分がフォローしてる数は案外少なくて、150~200だったりする。
ツイッターでデビューしたての時うれしくて、手当たりしだいフォローをしまくっていたけど、
時間がたって、冷静になった時に、あまりつぶやきに興味がない、親近感が持てない人を外すという話は
良くあるけれど、絞った後の人数はこれくらいだったりする。
企業では200人超えると「そろそろセクション制を導入しようか」という話になる。
また年賀状だったりケータイの番号登録してる友人の数だったり
ギリギリ顔と名前が一致する人の数はだいたいこんなもんである。


これはなぜなのか?


答えは「太古からの習性」である。
「50」という数は親族などを含む大家族の人数で、狩猟採集時代の人の群れの最大人数なのだ。
200万年前とも言われる、旧石器時代の始まりより人類はずっと30~50人という群れで暮らしており、
我々の脳はこの時代に合わせて最適化されている。50は集団の中で一人一人の個性を認識できる限界なのである。

集団の人数が80人や100人を超えると、もはや我々は個人の個性を見分ける事ができなくなる。
それでも150人くらいはなんとか顔と名前を一致させる事ができるが、200以上になると、集団としての
一体感は急速に失われていくことになる。

「150」は、農耕社会におけるひとつの村の人口の上限だ。近代社会が成立するまでは、
100~150人で構成されるムラ社会がひとびとの生活のすべてだった。
我々はその外側にいる人たちはヴァーチャルな記号の集積としてしか感じられない。


さてネット大喜利の集客の話である。
「50」と聞いて何か思い浮かばないだろうか?
これはPHP赤い部屋で同時に遊べるぎりぎり最大の人数である。
50を超えるとそこに居る人は読むのめんどくせえし審査するのだるいし、そろそろ分散したくなるのである。
そして外から新しく来た人も、赤い部屋を覗いた時、50人以上いるようだと「今日はやめとこうか」となるのである。

俺はこれはたまたまでは無いと考えている。
3分で審査してたから、限界がたまたま50人になったのではない。
サイトデザインや文字の大きさの関係で、50人になっているのではない。
これは「マジックナンバー」なのだ!

全体投票制の大喜利サイトや大会に「参加しようかな?しないでおこうかな?」と迷っている時
その参加を後押しするのは「ここの人達は僕のボケをわかってくれるだろう」という確信である。
この確信ができなければ、人はサイトにも大会にも参加などしない。

ではそのためには何がわからなくてはいけないのか?
「誰がいてどんなボケをしているか、どんなボケに投票するのか」がわからなくてはいけないのである。
一人一人の個性が見えてないといけないのだ。
しかし人間が集団の中の一人一人の個性を認識できる限界は50人なのである。
だからPHPの参加人数は50人が限界点なのである。
それ以上になるとなんのこっちゃわかんなくなるのである。
そこで「参加するのやめとこ」になるのだ。

だから仮にPHPを大きくするとして、宣伝がうまくいったとして、
通常部屋に100人、200人があふれ、回りつづけて行く未来が来るのかと言えば
そんな事は永久に無い。
人の脳はそのようには作られていないのである。
これは全体投票サイトのガラスの天井なのだ(見えないけどそれ以上、上に行けないという事ね)


そして全体投票制の長考の大規模大会が結局200人に収束していくのも同様である。
人が長考大規模大会に参加する時にはその参加者への信用が必要なのだ。
そしてそこに集まっている人たちを一つのコミュニティーとして見ている。
本当は50人がいいんだけど、お祭りっぽいし長い審査時間を与えられているので
無理をしてぎりぎり顔と名前が一致できる程度の200人。その人数に収束していっているのではないのか。

「微妙に名前を知っていて親近感持てる奴がいる大会しか出たくない」
「多すぎてなんかめんどくさい わけわかんない」
「こんな知らない奴らは俺のボケをどうせ理解できない」
という人が大勢いるのではないのか?
考えてみれば400人規模の大会の時もAとBの200人ずつに分けられて
自分のグループ200人しかあんまり見て無かったような気がする。

大会の規模が200人に収束しているのはネット大喜利の衰退を意味するのだろうか?

ネット大喜利は本当に衰退しているのだろうか?

これは人気があるなしの問題ではない。
全体投票サイトのガラスの天井じゃないのか?(見えないけどそれ以上、上に行けないという事ね 2回目)

俺はマジックナンバーは生身の人間、顔と名前がわかる範囲にしか適用されないんではないか?と
長く思っていたが、最近これはコテとボケのようなネット上のキャラクターにも当てはまっているのではないかと
考えるようになったのである。


つまり


全体投票というシステム下においては
僕たちは200人規模の集まりしか作れないんじゃないの?



強制参加でない限りそうなるんじゃないかと


全体投票制、全体投票制と口をすっぱくして言っているのは
このガラスの天井は全体投票制特有のものかもしれないと思っているからである。

だってケータイ大喜利の投稿数は一晩で20万件を超えている
1人が20のボケを出していたとしても1万人以上は確実に参加者がいるという事だ。

これはなぜか?
1つはマスメディアで物凄く広い範囲に宣伝ができている事。
そしてもう1つは、審査する人間が全体ではなくて、特定の個人、企業だからだ。
横のつながり、そのコミュニティーの人200人への信用ではなくて、
主催者と投稿者の少ない人数での信頼関係なのである。
「他の投稿者の事なんて知らんが、僕のボケは千原ジュニア、板尾、今田がわかってくれる・・・だろう」という事だ。


他の例も見てみよう
雑誌の投稿コーナー(ふぁみ通、ジャンプ放送局)も
横のつながりのコミュニティーへの信頼で投稿させているのではない。投降者同士が審査するのではなく
雑誌側が一方的にガバスをくれる。
やはり主催者と投稿者の少ない人数での信頼関係なのである。横のつながりは無い。
「他の投稿者の事なんて知らんが、僕のボケはさくまあきら、えのん、チサタローがわかってくれる・・・だろう」
という事だ。

古いマスメディア型のシステムと言えなくもない。

では他のネット型サイト「ボケて」はどうだろう。
「ボケて」は非常に特殊なサイトで
横の繋がりが見えるサイトではない。
そもそも何人が自分のボケを見てるのかもよくわからないのだ。
全体が見渡せないのである。
全体が見渡せないんだけど、ツイッターやフェイスブックと連動しており、
一端火がつくと狂ったように評価されネット上に拡散していく、恐るべきサイトである。
1万人以上からの賞賛を得られるのだ。

その狂ったように火が付いて評価され拡散していく
そのこと自体への欲求が人を投稿に駆り立てるのだ。
「俺もスターになれるかもしれない 投稿しよう」である。


さらにボケてには「お気に入り」システムがある。丁度ツイッターでいうフォローのようなもので
気に行った投降者のボケを自分のタイムラインのようなものに表示させる事ができる。
これはお気に入りにされたら、お気に入りし返すようなマナーがあり、ここでもツイッターの再現になっている。
ポイントが高く有名な人は物凄い数の人にお気に入られているので、
ますます人の目につく頻度が高まり、評価される機会が
増えていくような状況だ。

要するにツイッターのフォロー、フォロワー的なつながりと、1万人以上からの賞賛という
爆発的な評価システムの合わせ技!まことに巧妙なサイトである。
ボケての中枢にいる連中は恐ろしく頭が良いんじゃないかと背筋が寒くなる。

ただこの無敵の「ボケて」にも弱点がある。
後から来た人に非常に厳しい点だ。
ボケてでは無名の新人が大活躍するのが全体投票制サイトに比べて難しい。
1万人以上という爆発的な評価を得るためには、
ボケを出した初期時点で、ある程度の評価を集め注目される必要があるのだ。
ある程度の評価を集められれば、(星にして15~30)注目タイムラインにボケが掲載される
注目タイムラインにボケが掲載されてそこでも多く評価されれば大発火して拡散していく。

この「初期時点である程度の評価を得て注目される(星にして15~30)そして注目タイムラインに掲載される」
をコンスタントにこなす事こそが、
ボケてで成功するコツなのだと思うが、そのためには、多くの人にお気にいられてないといけないのだ。
そのためには名前を売る必要があるのである。有名でないといけないのだ。
そしてそれが出来なければ箸にも棒にもかからないのである。

「富める者はますます富んで 飢える者はますます飢える」

まさに現代社会の縮図
誰もがアメリカンドリームを夢見て頑張っているが、
その実態は強烈な格差社会である、アメリカを彷彿とさせるようなサイトである。

そういう意味では全体投票制のサイトは日本的な、人を大事にする、全体を平等に見る、
生身的な、別にネットじゃなくてもできる、古き良きシステムである。(褒めてる)

無名の新人でも活躍できる余地があるし、競技色、試合的要素が強い、
人を一人一人見ていくし、一体感がある。
このへんがボケてに対して持ちうる強みではないかと思う。





話をガラスの天井に戻そう。
全体投票制のガラスの天井は、特定人物審査やボケてシステムなら破れるのである。



話は最終段階へ入る。



俺は全体投票制システムには人数的なガラスの天井があるかもしれないと思っているが、
全体投票制システムを否定するものではまったくない。むしろ肯定している。
コミュニティーのあり方としてこんなわかりやすいシステムはないし、たぶん一番良い。
時代の変化への対応も早いだろう。ただ規模はたぶんここで打ち止めだ。

これ以上をのぞむのであれば分けるしかない。
200人を超えた時点でA、Bに分けてそれがC、Dと増えていく。

そうして200人規模の集まりが無数にできていく。それがネット大喜利の未来の姿ではないだろうか。

いまのネタボケ ぼけおめ PHP その他もろもろのサイトが同じくらい200人位の規模で
無数にできていく、それこそが、人間の認識の限界から見て、自然な姿なのだろう。
(ネタボケは一部の人が審査しているが、誰がやってもよいので特定人物審査ではなく、コミュニティーへの信頼で成り立つ全体投票システムの変化形と仮定する)

どうしても規模を拡大したかったら垂直統合という手がある。
ガラスの天井で人は200人しか集まれない、管理できないのだから
200人規模のサイトの管理人200人を管理すれば200×200=40000人である
1つの街ぐらいの大喜利タウンが出来上がるだろう。統合する意味まったくわからんけど。

実際、弥生時代にはそういう事が起こっていたんじゃないだろうか。
何百人単位の無数の集落が原始的な武器で戦争しあって日本中で戦っていた。

これからネット大喜利をとりまく環境もおそらくそうなる。
ネット大喜利は今、歴史が始まったばかりである。
その動き方は人が人である以上、人類史をなぞったものになるだろう。

ネット大喜利弥生時代である。

200人位の無数の集落が俺達が一番面白いと言いながら戦い合うのである。
そして卑弥呼があらわれて、邪馬台国ができて、次第にヤマトになっていくのである。
統合する意味まったくわからんけど。



まとめよう


人間は太古からの習慣でマジックナンバーに支配されている。
我々が集団の中で親近感を持って認識できる限界は200人である。
全体投票システム下において我々の集団は200人に収束していく。
それ以上を望むならセクションに分けるしかない。

しかしこれ以上人が増えてどうするのか?
認識できない人が増えても記号としか感じれないだけである。
それはプレイヤーにとってはあまり意味がないのではないだろうか。
「隣町の学校が今度増える事になった」程度の事でしかないのではないだろうか。
どうせ身近に感じる事はできはしない。


断言しよう!



我々はもう行きついている

それは脳の認識の限界に規定されている

それは太古の昔から決められていた事だった

規模の呪縛から解き放たれよ


ここはすでにユートピアなのである!



| NEXT≫

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。